2008.01.05

NHKビジネス英会話

 いつも楽しみにしているラジオ番組にビジネス英会話というのがある。
 これが面白いのだ。アメリカの広告会社に勤める人が主人公で、
職場環境の問題、最新のビジネス理論、仕事と家庭の両立、趣味、
働く母親のSOHO状況や、知的で自らblog発信するα-mumの話など、
多様なトピックが、正確なデータを提示しながら扱われる。
ちょっと登場人物のインテリ博識ぶりが鼻につくこともあるが。
英語はアメリカ英語だが、先々月から登場している新しいマネージャーが
イギリス人で、ローマ字読みのようなクイーンズイングリッシュをしゃべる。

平日夜11時15分からNHKAM第二放送で流れる。
再放送は2回、翌日と日曜日にまとめてだ。
私は携帯型のラジオつきプレーヤーでタイマー録音し、
朝の通勤で聞く。
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(値は張ったので、妻にお願いして買わせてもらった。が、元は十分取れたと思う。
このプレーヤー、ICレコーダとして仕事にも活躍している)

まとまった量があり、知らない単語も多くて、
私には聞き落とすこともあるのだが、
内容が面白いので、後で見ても覚えやすい。
書店で売られている紙のテキストのほか、
インターネット上の音声つきテキスト、2週間遅れの音声のネット提供などもある。
私はパソコンを使う時間を減らすようにしているのでネット版はみない。
紙のテキストを毎月買い、電車の中で、また歩きながら聞く。
だいたい一月ぐらいで過去の音声は消してしまう。

 昨晩4日は年頭の番外編で、リスナー代表とのディスカッションだった。
といっても素人さんではなく、英語教育の経験豊富な先生だ。
番組づくりで心を砕くこと、聞くときの工夫などは、心理学的にも興味深い話だった。
これを聞いて、長寿番組である理由がわかった。
私は3年前にアメリカから戻ったとき、英語を忘れないようにと聞き始めたのだが、
内容に興味を持てるということは、語学継続の必須条件だと思う。
興味を持てるから、自分の話題にもなる。

私の研究テーマはアメリカ宗教だった。
英語から逃げたかった15年前、調査先の宗教団体の歴史研究者に、英語で話を聞かせてもらうことになり、
これがチャレンジのきっかけになったと思う。
単語の使い方も聞き方も、今考えるとおかしかったと思うが、何冊か関連の本を読んでいたので、
聞くことも定まっていたし、話もだいぶわかった。
もう一つは上越教育大時代の米国理解プロジェクトで、今は日本女子大におられる田部俊充先生の
お手伝いで、現役教師のための米国研修を企画し、交渉し、下見した。
自分の専門分野ではない地理学が中心になっていたので苦労したのと、
(米国の(日本も?))常識を知らずに失敗をたくさんやらかしたが、とてもよい経験だった。
旅行で同行した先生方のやり方をまねさせてもらったところもある。
スーパーで買い物するようなときでも、レジで「このいい方はうまい」と思うと、メモをとってまねした。
結局、使わなければならないところに追い込まれないと覚えないとおもった。

一年間渡米しての仕事の機会を頂いたとき、
ヒントと励みになったのは、杉並の教育委員会で要職を務められている
藤原和博氏の「よのなか教科書 英語」。彼が学校現場で取り組んだ実例もある。
一言で言うと、英会話は自己紹介が基本
自分の関心からしか話をすることができないのだから、
お仕着せの、海外旅行とショッピングの英会話に興味が湧かない理由もわかる。
私の関心はと問えば、心理、宗教及び宗教美術、サイクリング、写真のための
英語表現を集めていけば、しゃべることは容易になるはず。
実はこれと同じことを米国理解プロジェクトでもやっていて、地理学関係の単語を
たくさん覚えたことを思い出した。

AAの調査でも、やはり特定の単語がよく出てきた。
一つの転機は、英語で泣く、という感覚が実感できたこと。
感情を表現するのではなく、感情そのものが英語になる、
その感覚が、AAのミーティングなどでは、役に立った。

AAのメンバーは、英語を学んで、本場米国のAAについて知りたがっている人も多い。
話を聞くとかなりやり手のビジネスマンだったのが、お酒が元で
苦労された方もおられる。
「これはペン」「私はマイク」から始まった英語は、
人生の重みが加わった英語になろうとしている。

話を元に戻しますと、この番組、お勧めです。

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2007.12.29

生命の産業―バイオテクノロジーの経済倫理学: 佐藤 光

鳥取大学の安藤泰至先生より、佐藤光編『生命の産業--バイオテクノロジーの経済倫理学』ナカニシヤ出版、を頂きました。

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あとがきで、本書の元になったBE研究会のことについて触れられているのですが、BEとはバイオエシックスではなくバイオエコノミクス、つまりバイオテクノロジーの倫理ではなく経済について研究する会ということですね。

 企画の出発点から、エキサイティングです。

この中では臓器の移植問題、製薬産業、作物の品種改良の問題などが触れられていますが、アルコール依存症とその治療という領域でも、さまざまな闘いが!思うに、アルコール自体が伝統的バイオテクノロジーの産物であります。

安藤先生、ありがとうございます。

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2007.12.02

『ソシオロジカル・スタディーズ』

張江・大谷の両氏が、『ソシオロジカル・スタディーズ』という本を、世界思想社から刊行されました。
現物を頂きましたが、現代日本を観察させ考察させるという設定が魅力的です。

この本についても後日。

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2007.10.22

實川幹朗編『心理療法とスピリチュアルな癒し--霊的治療文化再考』春秋社

でたばかりの、興味深い本の情報です。
 實川先生は心理学と宗教の間、心の諸問題をずっと研究している方ですが、
他にもユニークな論者が寄稿された、こんな本が春秋社から出ました。
表紙の美しい写真が、いいですね。おしべというモチーフの含意にも考えるところありです。
臨床心理に携わる人は、治療中に宗教的な問題がさまざまな形で出てくることも多いのですが、
それを考える一つのヒントになるかと思います。また、治療のゴールはどこか、という、
これまた大きな問題に対する、一つの考察の筋道も。
中身も、昨今話題になっているいくつかのトピックを取り上げていて、
なるべく早く読ませていただこうと思います。

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春秋社より、2800円。

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2007.01.31

「聖なる場所を聖なる場所と感じること」とは? ジェイムズ・スワン『聖なる場所』解説より

「聖なる場所を聖なる場所と感じること」とは?
ジェイムズ・スワン『聖なる場所』解説より

葛西 賢太

 本書は米国の環境心理学者であり自然保護運動家であり、音楽家でもあるというジェイムズ・スワンの『聖なる場所――地球とのふれあい』(@Sacred Places--How the Living Earth seeks our Friendship¥, Bear & Company, 1990)の邦訳である。なお本書に先立ち、日本教文社から金子昭・金子珠理訳『自然の教え 自然の癒し――スピリチュアル・エコロジーの智慧』(@Nature as Teacher and Healer--How to Reawaken your Connection with Nature¥, Villard Books, 1992)が刊行されている。

 「はじめに」と「おわりに」では、「聖なる場所」について真剣に考えるようになるきっかけから、「場所」と関わった著者がただの心理学者からどのように変わっていったかまでが、個人的な体験に重点をおいて語られている。この二つだけを取り出して続けて読んでみると、スワンという人のひととなりはよくわかるはずである。

 読者に本書はどのような印象を与えただろうか。たとえば「聖なる場所」についてのスワンの語りかたに抵抗を感じる方がおられたのではないだろうか。スワンは、まるで「場所」が意志を持ち人格を持つかのように語っている。読者も、「場所」が命をもっている相手であるように、場所の話を聞き場所に語りかけるつもりで読んでいただきたい。動物を原告として立て、奄美大島などでの自然破壊を糾弾しようとした訴訟が最近日本でも試みられたが、こういう感覚を理解される方々なら、本書に抵抗なく入っていけるかもしれない。

 この点一つとっても、本書は厳密な論理に基づく研究書というよりも、直観に導かれたメッセージとみなすべきかと思う。駆け足で本書をおさらいしながら、補足説明を加えるという形で、スワンに少しでも近づいてみよう。

* * * * *

 第一章では、スワン流の「聖なる場所」の定義を行なう。ふだん私たちは聖地や聖なる場所といえば、何か立派な建物があるかのように思ってしまう。しかし、他と異なる「雰囲気」「力」を感じさせるゆえに、外見上何の違いもなくとも聖なる場所とされているものがある。そのような場所だからこそ聖地とされ、立派な建物が建てられるのであり、建物はあとからついてくるものなのである。

 第二章は、さまざまな聖なる場所のタイプが示される。聖なる場所のタイプを示すということは、聖なる場所が持っている働きや力について語ることでもある。この力は人間にとって無条件に都合よく働くものではなく、時により、また関わりかたを誤れば、たいへん危険なものとなることもある。

 第三章は現代人の生き方と伝統的な社会の人々の生き方とを対比するものである。近代的な環境にどっぷりつかりながら、余暇に郊外へ自家用車で大挙して繰り出したり、空調の行き届いた部屋でペットを飼い観葉植物を育てたりして、それで自然と触れ合っていると思いこんでいる現代人のありかたをスワンは批判する。こういう生き方を続けていては、聖なる場所の力や雰囲気を感じ取る能力は失われてしまう。口では自然保護を叫んでも、それでは自然とはどういうことなのか、テレビで見たイメージの延長でしか語れなくなってしまっているのである。

 第四章は聖なる場所をめぐる法的な諸問題についてである。一人の人間が誰にも話さずにこっそりと何かを信じている場合と異なり、複数の人間が信じ、集会や儀礼、布教などを行なうときには、法を無視するわけにはいかない。そして法と関わる分野で、「宗教とは何か」「真理とは何か」という、俗的とはいいがたい問題がクローズアップされることになる。アメリカ先住民の「聖なる場所」にはしるしもなにもない。「聖なる場所」が国立公園の中や森林開発・リゾート開発の対象とされるにおよんだとき、そこがたしかに神聖な場所であり保護に値するという根拠を、当事者である先住民は法的に有効な形で示すことができなかったのである。

 彼らがその場所にずっと住んでいたのなら、ことは簡単だろう。しかし、彼らを保留地に強制移住させて再教育を施したのは合衆国なのだ〔解説註:この再教育が孕んでいた問題点については、D.W.Adams, @Education for Extinction: American Indians and the Boarding School Experience, 1875-1928¥, Kansas University Press, 1995を参照。また保留地の先住民のおかれている悲惨な環境については、たとえばEduardo Duran and Bonnie Duran, @Native American: Postcolonial Psychology¥, State University of New York Press, 1995を参照。〕。純血の先住民もいまでは少なくなっている。数千年にわたって離散<ディアスポラ>の憂き目に遭ったユダヤ教の場合には、ユダヤ人が行なう宗教はほぼ自動的にユダヤ教となる。しかし、アメリカ先住民の宗教の場合には、場所と人と両方に規定されるのに、両条件がもはや整わなくなっている。先住民どうしの内部分裂もある。聖なる場所を同定する上での困難をあげた後、スワンは、では聖なる場所と他の場所が違うことを、「科学的」な方法で示すことはできないだろうかと問う。

 第五章では、現代に生きる私たちが聖なる場所とどのようにつきあっていくかを問題にする。サモア人の骨まで到達する近代化の力は、伝統社会の人々からも平穏な暮らしを奪う。スワンは、各地の伝統文化から「地霊を心にかける」選択肢を呈示する。子どもたちの世代への環境教育も、やはり「地霊を心にかける」よう配慮しなければならないのだ。

 第六章は、地球を土の塊としてみるのではなく、「ガイア」、一つの生命体としてつきあっていくべきだとする、いわゆるガイア仮説を取り上げる。スワンにとって、地球は単なる人間の容器ではなく、人間以外のさまざまな生き物を受け入れ、全体として一つの生命体をなすものなのだ。

* * * * *

 二〇年以上前に、ローマ・クラブは食料危機の到来を予言している。祖母は「おまえが大人になるときには食べ物が無くなる。恐ろしいことだ。」と言った。しかしそうはならず、農業技術の発展の恩恵で、私は飽食の時代になお生きている。水や米などの供給が一時的に少なくなることもたびたびあったが、供給が元に戻れば私たちも元どおりになってしまった。

 昨今のエコロジーブームのはじまり(復活?)は、国際情報誌タイムの新年号の名物企画「年男」に、一九八九年一月一日の号では、「地球」が選ばれたことから始まっている。暗い海辺に何かが打ち寄せられている様子が表紙になっている。よくみると、ビニールでくるまれ、麻紐のようなものでぐるぐるまきにされた地球にほかならない。タイム誌が四〇頁にのぼる企画で取り上げた真摯さに驚かされ、それから日本のマスコミや産業界でも、エコロジーの問題が頻繁に語られるようになったのであった。識者の間で問題の深刻さが痛感されているせいもあるのだろう、今回は一時的なブームに留まらず、エコロジーは私たちの常識へと昇格し、現在にいたっている。しかし私たちの生活が根本的に変えられたかというとそうでもない。エコロジーは企業イメージを高めるための道具に使われているという雰囲気が消えないのだ。

 このままでは地球が破滅してしまい「人間が生きられなくなるから」フロン製品を買わないようにしよう、紙をリサイクルしようなどという発想には限度がある。わずかな労を惜しんで自家用車で買い物や通勤をしたり、パソコン通信で熱心にエコロジーを論じる一方でパソコンに一日中電源を入れたままだったりする。人間中心の快を求める発想は真のエコロジーとして根付くものではない。

 現代の環境運動に欠けているものがスワンにはある。スワンは、人間が住めなくなるから、ではなく、すでに大地が悲鳴をあげているから、自然保護を考えなければならないという。人間だけの快ではなく、すべての生物をひっくるめた全体のためになる選択肢は、大地に教えを乞うことによってしか得ることができないとスワンは断言する。ここで注意すべきは、スワンが大地を、守ってやらなければならない存在としてではなく、人間がかなわない智慧をもっており、人間が教えを乞うべき高い存在としてとらえている点である。

 アメリカ先住民にしろ、地球にしろ、その弱さを強調するのみにかたよってはならない。保護されるだけではなく、本来の力を発揮すべく、生かされなければならない。現に先住民は合衆国政府によって保留地に「保護」されたあげく、骨抜きにされてしまっているのだ。むしろ彼らの本来の力を知って、敬意を払わなければならない、そこから本来のエコロジーが始まるのだとスワンは説く。

 さて、ではその場所の力というものは、本当にあるのだろうか。荘厳な大伽藍にあって、跪いて祈ってみたくなる気持ちは誰にでも理解できる。しかしスワンは、何のしるしもない、小さな水たまりとか草むらとかいった場所からも、宗教的な感情が引き出されるというのである。

 こうした問題は、宗教学では議論しにくい。草むらや水たまりにも宗教的な力が込められているかもしれないという前提に立たなければこのような議論ははじめられず、論点先取の問題を抱えこむことになるからである。スワンが行なったような「科学的」な方法で宗教体験の同定を行ない、聖なる場所の同定を行なうやり方には、厳密にいうなら多くの問題がある。得られた測定値と、個人の内面に生じている現象とが必ずしも一対一に対応しないのである〔解説註:この問題については、たとえば藤原聖子「宗教体験論における『像を見る』アナロジー――新しいヴィトゲンシュタイン的視座より」『思想』岩波書店、一九九五年十月、を参照。〕。四章でスワンが取り上げている、空気中のイオンや磁場などは、違いを示す上で参考にはなっても、そこでの体験が「聖なるもの」であるかを同定する上で決定的なものではない。

 ではスワンのやったことは無意味なのだろうか。いやむしろ、こうした一線を超えて、スワンはその「力」に私たちを触れさせようとしているのだとみるべきではないだろうか。これを自然崇拝として切り捨ててしまえばそれでおわりである。だがスワンの説いた内容には、たとえば我が国の神道宗教本来の生き生きとしたありさま(靖国問題などでぼかされてしまいはしたが)を考察する重要なヒントもあるように思われる。

 大地だけでなくもう一方の登場人物、北米先住民の説明をしておくべきだろう。まずはインディアンという語をめぐって。

 “indian”「インディアン」と彼らを呼ぶことに代えて、“Native American”「北米先住民」という言い方が提案されている。前者が、コロンブスがアメリカ大陸をインドと勘違いした五〇〇年前の誤解を引き継いでおり、また彼らに対する軽蔑あるいは優越の感情を込めて使われた経緯ゆえであろう。ただし、アメリカに数世代住んでいる白人は、自分たちも“native”だと主張しており、それゆえこの言い方は多くの白人(とくに保守派)からは不評で、今では“American Indian”あるいは“Amerindian”という言い方がよく使われるらしい(渡辺和浩氏のご教示による)。

 スワン自身はこの二つの語を、特に意識して使い分けてはいない。むしろ、先住民が自らをあえて「インディアン」と呼ぶのと同様に、ある種の親しみと戦略的な観点から、やはりあえて「インディアン」と呼びかけているとも思われる。このため、本訳書でもとくに統一ははからなかった。

 私たち日本人の多くは、「インディアン」といえば、頭に羽根飾りをつけた赤い顔の男性を想像するだろう。だが実際の「インディアン」は、相異なる生活様式を持つ別々の集団を、いささか強引にひとくくりにしてしまった用語なのである。この誤解は遠い日本だけでなく、実は合衆国でも広がっていたもののようである。

 合衆国の宗教学者キャサリーン・オルバニーズは、「赤ら顔で顔に人生経験の豊富さを示す深い皺が刻まれ、羽根飾りをつけた、インディアンの酋長さん」というイメージについて言及しつつ、現実にはそのイメージ通りのインディアンはどこにもいないと述べている〔解説註:Catherine Albanese, @America--Religions and Religion¥, Wardsworth Publishing Co. California, 1992. 特にpp.25-6を参照。〕。また、竹沢泰子は、合衆国の広告のイラストやジョークを分析し、WASP(アングロサクソンでプロテスタントの白人)の「アメリカ人」が、同じ領土に住む別の民族系統の人々に対してどのようなイメージをもっているかを考えている。常に語られるのは、「野蛮」で「原始的」、たとえば「頭に羽根毛をさし、みつあみをし、トウモロコシのパイプを吸いながら、馬に乗っている」人々であると考えられている〔解説註:「アメリカ合衆国におけるステレオタイプとエスニシティ――広告とジョークに見られる民族像のダイナミックス――」『民族学研究』52/4、1988年、377頁を参照。〕。

 しかしこれにあてはまる人々はむしろ少数派である。たとえば、西部劇にでてくるインディアンは馬に乗っているが、実は馬をもたらしたのは白人である。彼らが文明とは無縁ののどかな生活を送っている、という理解も、偏ったものである。たとえば、チェロキー族のような、英語に親しみ、さらに彼らの言語を表記するための文字をも独自に開拓した人々がいるからである。ただし、本書でスワンが言及するのは、チェロキーのような非常に西欧文明に近い部族ではなく、むしろホピのような原始的な伝承、祭礼、そして土地感覚をそなえた人々であるのだが。

 こうした先住民が保留地に押し込められ、経済的にも文化的にも、そして人道的にも問題のある状況に長くおかれ、気力も萎え、アルコールなどに依存する生活に落ちてしまった者も多い。しかし反抗を試みたものが皆無だったわけではない。

 その具体例として、読者にデニス・バンクス『聖なる魂』(朝日文庫)を紹介させていただこう。バンクスは、かつて駐留軍の一員として日本に滞在したこともある先住民出身者である。再教育のための学校に押し込められ、先住民の言葉を使うたびに処罰され、成人して酒浸りになった彼が、先住民としての自らのアイデンティティを自覚して立ち上がり、民族運動の指導者として活躍するようになるまでを綴ったものである。本書でスワンが触れている、カリフォルニアからワシントン特別区までの大行進「ザ・ロンゲスト・ウォーク」を指導した人物の一人がバンクスである〔解説註:この行進に加わっていた日本人僧侶は、日本山妙法寺という仏教教団に所属している。日本山妙法寺は、宗派を越えた平和維持のための祈念と活動を日々行なっていることで知られている。〕。

 こうした動きは「レッド・パワー」と呼ばれる。ディー・ブラウンが先住民の受けた迫害を描いたことで〔解説註:鈴木主税訳『わが魂を聖地に埋めよ――アメリカ・インディアン闘争史』(上下)草思社、一九七二年。〕、またブラック・エルクが自らの宗教体験と数奇な人生を語ったことで〔解説註:ナイハルト(弥永健一訳)『ブラック・エルクは語る』現代教養文庫、一九七七年。〕、レッド・パワーは呼び覚まされた。

 このような政治運動において、先住民が受けた迫害を強調することは、しばしば先住民が弱い存在で、その文化も消えゆくものであるという印象を与える。それがかえって、常に保護されなければならない、文明化から(とり)残された先住民という、これも誤った見方を広めることにつながっているかもしれない〔解説註:人類学者C・レヴィ=ストロースも同じような陥穽にはまっていたという話は、彼の『未開の思考』などの著作を知る人には意外だろう。『親族の基本構造』執筆のためニューヨークの図書館で調べものをしていた彼は、羽根飾りをつけたインディアンが万年筆で書き物をしているのに出会いとまどったという。James Clifford, @The Predicament of Culture: Twentieth-Century Ethnography, Literature, and Art¥, Harvard University Press, 1988を参照。〕。

 いつまでも、弱くて保護されなければならない先住民というイメージをにしがみついているべきではない。(役に立たないけれども)弱者だから保護しなければならない、ではなく、単なるノスタルジーの対象以上の価値を持っているから、何とか保護したいという議論となるべきではないだろうか。その意味で本書は、生き生きとした先住民、そして生き生きとした大地の力を語ろうとしている点で、大いに評価されてよい書物である。

 このような「生き生きとした北米先住民<インディアン>」を語っていて、日本語で読めるやさしいものを、いくつか挙げておく。これらは文章も読みやすいので、いろいろな方に読んでいただきたいと思う。さらに興味がわけば芋蔓式に拾っていくことができるだろう。阿部珠理『アメリカ先住民の精神世界』NHKブックス、一九九四年。
ヘェメヨースツ・ストーム(阿部珠理訳)『セブン・アローズ』(全三巻)地湧社、一九九二年。
原ひろ子『ヘヤー・インディアンとその世界』平凡社、一九八九年。
C・ハミルトン(横須賀孝弘監修、和巻耿介訳)『北米インディアン生活誌』社会評論社、一九九三年。
フィリップ・ジャカン(富田虎男監修)『アメリカ・インディアン――奪われた大地』創元社、一九九二年。


* * * * *

 神道学者(と私は認識している)鎌田東二先生から「今の宗教学に新しいアプローチを呈示してくれる本だと思いますが、訳してみませんか」と薦められたのが本書との出会いである。私はアメリカ宗教研究者の端くれであるが先住民の宗教については知識がなく、地名等を確認する作業が難航した。東大文学部の島薗進先生と畏友渡辺和浩氏には最終段階の訳稿全体に目を通していただき、訳文の検討や事実確認などを実に細々としてくださった。春秋社の鷲尾徹太氏には、訳稿を何度もお読みいただき、励ましや訳文の工夫、数多のアドバイスをいただいた。当然のことながら本書の内容についての最終的な責任は私が負っているのだが、一人では越えられない峠を一緒に越えてくださる方々がいる私は、幸せである。

 スワンが本書でさまざまな人生の転機について語っているように、本書にかかわってから私にもさまざまな転機があり、三〇年近く滞在していた神奈川・東京を離れ、大学院を修了して新潟で奉職することになった。本書から私は、自分が暮らす場所、仕事をする場所と向かい合い、場所を感じることを学んだ。スワンが教えるようなことはとくにしなかったのだが、旅行で来たことさえなかった新潟という新天地に、思いのほかスムーズにとけこむことができたのは、本書の効能といってもいいのではないだろうか。読者の方々もまた場所を愛することを本書から学ばれれば幸いである。

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2006.06.02

川又俊則・寺田喜朗・武井順介編著『ライフヒストリーの宗教社会学--紡がれる信仰と人生』

ハーベスト社から、上記の書籍が刊行されました。

著者の方々は私とほぼ同世代の若手研究者です。文献解題や用語解説など、おそらく教科書的な用法を意識した、意欲的な本を頂きました。
インタビューによる人生の再構成、そこにおいて宗教がどのように位置づけられるかを諸事例を通して吟味した好著。ですから、本書の中で扱われる諸事例を、かなり共感を持って読み、理解することができるでしょう。
注も力が入っていて面白いですよ。

読ませていただいてから細かい感想も述べたいと思います。

まずは、寺田さん、有り難く頂きました。

(ハーベスト社、2006年6月)

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矢野秀武『現代タイにおける仏教運動--タンマガーイ式瞑想とタイ社会の変容』

矢野秀武さんから、上記のご本を頂きました。

タイの上座(部)仏教は、タイの国教であり、男子のほとんどが一時出家するという社会において、重要な位置を占めています。その中で生じた宗教運動というべきタンマガーイ(タンマカーイ)についての本格的な研究。東大に提出された博士論文が元になっています。拾い読みをさせていただいた段階では、(1)国教としての仏教が占める特別な位置は、日本と比較して実に実に興味深いと感じました。また、(2)その上座部から生じながらも、運動としてのタンマガーイがもつ、消費社会にも目を向けた性格といいますか、イベント性といってしまったら言い過ぎかも知れませんが、上座部的『伝統』との間に生じているずれが面白いと感じられました。(3)瞑想実践の内容も大いに興味を引くところです。

追ってコメントを補足したく思います。

矢野さん、有り難うございます。

(東信堂、2006年4月)

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深澤英隆著『啓蒙と霊性--近代宗教言説の生成と変容』

深澤英隆著『啓蒙と霊性--近代宗教言説の生成と変容』を落手いたしました。

私は、現代人が(少々無理をして)宗教における制度的なものを切り下げて体験的なものを称揚する現象(『スピリチュアリティ』を語るというのもそれですね)に興味を持って調べているのですが、本書は、これを、思想史的に手堅く吟味されたものです。

 宗教が近代諸制度を生み出すきっかけとなりつつ、近代の諸制度の外部に置かれた諸事情は、『宗教』概念の成立と関連して多くの研究者が注意しているところです。近代科学の展開は、宗教的真理として信じられてきたものの多くを説明して見せたわけですが、その一方、公害や環境問題や倫理をめぐる問題で近代科学の限界も指摘されています。

著者の深澤氏は、主としてドイツ語圏と英語圏における議論をフォローして、近代の知識人がこの問題をどのように扱ってきたかを述べたものと、まずはお見受けしました。
信仰をもった知識人が、近代のただ中にあって、批判や懐疑に身を置きながら、その「真理」をどのように受け止め、近代に対しても向き合っていくかというのは大きな問題です。

これからじっくり読ませていただきますが、まずはご紹介まで。追って詳細なコメントをさせていただきます。

なお、表紙が美しいです。

(岩波書店、2006年5月25日)

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2006.05.26

岡崎寛徳『近世武家社会の儀礼と交際』校倉書房

友人の岡崎寛徳さんが、博士論文を刊行されまして、早速購入しました。

 かたーい感じのタイトルで、歴史書の名門出版社である校倉書房の装丁。中身も堅いと思っていたのですが、これが意外で、文章も読みやすかったのです。

 扱われているのは『儀礼と交際』ですが、その細部が面白い。

 『儀礼』や『贈与』が形だけのもので廃すべきものだと考えるのは頭の固い合理主義者の考え方で、実際はこれらとともに多くのものが「交換」されています。それは、モースの「贈与論」や、「クラ」を流通させる島嶼のシステムを引き合いに出すまでもなく、主婦やサラリーマンが体験的に(痛みをもって)知っていることでもあります。

 従って、同じ「儀礼」や「贈与」をするのでも、いかにそれを効果的にするかが腕の見せ所、というより、江戸時代の公務員たる武家社会では、命にさえ関わります。何度か「虚礼廃止」を幕府が説くのですが、まあ、無理というものですね。

 時代劇の「遠山の金さん」や「水戸黄門」やらを見ていると、金さんや黄門に叱られた権力者が「お家取りつぶし」などの処罰を受けたりしているわけですが、実際にはあれほどきれいに勧善懲悪とは行かないことが多いはずです。濡れ衣や、あるいは正しいと確信して行なったことの結果で厳罰を被ることもある。つぶされた人は、その家族は、そしてその部下たる御家人たちはどうなるのかを考えると、切腹して桜が舞って終わりとはとても行かないはず。私はよく、つぶされた「お家」はどうなるのだろう、その後ずっと名誉挽回はないのだろうか、と考えていました。実はあるのだということを、この本で知りました。

 たとえば将軍は「鷹狩り」をなさるわけですが、その将軍に極上の鷹を献上するのはあたりまえ。皆が極上の鷹を献上するのですから、それをどうやって献上するか、そこに武家社会の涙と智慧とがきらっと光ります。本書中にも、意外なテクニックが。将軍もそのあたりの裏を感じつつ「見事じゃ」と、贈与を贈与として受け止めるのではないかと想像をふくらませました。

 時代劇や歴史小説がとても好きなら、普通のサラリーマンが読んでも面白いと感じられました。
元が博士論文ですから、本書の定価が10000円なのはご愛敬でしょう。


 

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2005.09.26

川本隆史編『ケアの社会倫理学――医療・看護・介護・教育をつなぐ』有斐閣選書、2005.

下記の著作が出ました。私の存じ上げている方々ばかりが寄稿されていますので、ご紹介いたします。
ご案内するまでもなく、医療・看護・介護に関わるさまざまな領域で著名な方々ばかりです(後述)。
重なるメンバーがかかれた、松原洋子・小泉義之編『生命の臨界――争点としての生命』人文書院、2005と併せ、ごらんになってみてください。
 私の研究に関わって重要なのは、医療・看護・介護・教育の「当事者」が誰であるか、誰がイニシアチヴを取り、これらの取り組みの質を方向付けていくのか、という問題です。

============

川本隆史編『ケアの社会倫理学――医療・看護・介護・教育をつなぐ』有斐閣、2005.

序論 《ケアの社会倫理学》への招待 川本隆史

I 医療とケア
第1章 子ども・医療・ケア 石橋涼子
第2章 高齢者医療とケア 高橋龍太郎
第3章 ケアとしての医療とその倫理 清水哲郎

II 看護とケア
第4章 実践知としてのケアの倫理 池川清子
第5章 感情労働としてのケア 武井麻子
第6章 臨床哲学とケア 堀江剛・中岡成文

III 介護とケア
第7章 介護の町内化とエロス化を 三好春樹
第8章 ケアの淵源 最首悟
第9章 介護とジェンダー 春日キスヨ

IV 生命倫理教育の反省
第10章 生命倫理教育の反省 香川知晶
第11章 学校で話したこと 立岩真也
第12章 生と死の語り方 大谷いづみ

コラム
いのちの母国 森崎和江
誇り・ぬくもり・輝きのケアシステムをもとめて 大熊由紀子
「生きるのをやめたい」若者たち 香山リカ

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2005.09.16

セル教会ガイドブック

ラルフ・ネイバー『セル教会ガイドブック』マルコーシュ・パブリケーション、1998.

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